混合で描く未来のかたち

アイディアの有機的な結びつきで未来を描こうという高校生による小さなこころみ。

コロナ収束後に対する一抹の不安。

5/14の非常事態宣言解除 発表

 昨夕、安倍総理大臣が会見で非常事態宣言の一部解除を発表した。相次いでコロナ勝利ムードとも呼べる報道がなされた。(僕はあくまで経済の破滅を防ぐために解除したにすぎないという認識だ。)そんな中多くの人が「元通りの生活」という表現を使う。ここに果てしない不安を感じた。多くの人がコロナを「生かして」より良い社会を、などと謳っているのにどこかでもと通りの生活に戻ろうとしているように感じる。僕は「変化を恐れる」ところが日本人の弱点だと思っている。特有の集団意識のようなものが集団の中で特異な存在になることを恐れさせ、それが同質化を加速する。この非改革的特徴がせっかくの変化を押し戻しつつあるように感じたのだ。

 

コロナで生まれた新しい価値観

 学びについてまとめた時にも触れたがコロナによる一連の、ある意味強制的な社会変化は私たちに多くの洞察を与えてくれた。通常社会的な変化は一部のコアな層から一般に広まっていくものだが、今回は一気にほぼ全ての層で変化が起きた。例えば今や必要不可欠なスマートフォン。初めて現在の形として登場した時、つまりApple社のiPhoneが世に出た時、当時の世間の認識は一部のマニアが使う特殊な機械だった。それが今やほとんどの人が意識することもなく使う社会に溶け込んだ機械になった。これまで、変革は徐々に起こり社会に浸透していくものだった。しかし、今回のコロナによる騒動ではさまざまな活動が半強制的にインターネットを介したバーチャルの世界へ移された。

 一番重要なのはこのスピード感だ。人間は日々の変化には疎い。振り返ってみると大きな変化でも、その変化の中では意識していないと気づかないまま通り過ぎてしまう。おそらくスマートフォンをも自然に社会に溶け込み、気づけば必要不可欠になっていたという感覚だろう。(今の小中学生にとってはもうその感覚もないのかもしれないと思うと驚く笑) しかし、今回は自分たちの意識下で大きな変化が起きた。だからこそ、変化前後を比較する事が容易で、物事の本質が浮き上がってきた。僕は教育という部分で授業や学校の本質的な意味を考えさせられたし、多くの人が自身の置かれた環境で何が本質的なものなのか考える機会になったと思う。特に、オンラインで物事が進んでいくとこれまでは雰囲気で体感していた多くの部分が削ぎ落とされ、さらに物事の本質的な部分を洗い出していった。

 

変化を体験した社会の様相

 おそらく、変化を恐れない人々は今回の気づきを徹底的に活用した新たな仕組みづくりにとりかかると思う。例えばオンラインとオフラインをうまく使い分けた活動だ。それぞれのメリット・デメリットがはっきりした今、目的ごとに固定観念に囚われる事なく手段を選択することができ、果てしない効率化をもたらすと思う。

 一方で、変化を恐れる人々は間違いなくこれまでの形に戻ろうとし、さらにはオンラインへの変化をこれまで以上に嫌うかもしれない。あまりにも急激変化で嫌悪感すら生まれた可能性があるからだ。

 高校生なりに客観的に今の社会を見た時に、明らかに考え方が二分されている気がする。一方はコロナを生かして変化し、一方はコロナ以前の環境を取り戻そうと奮闘する。しかも、大半が後者であるように見える。少なくとも抜本的な改革をしていこうとしているのはほんの一部だと思う。

 僕はこの数週間、オンラインになって効率化されたコロナ後の社会を思い描いてきただけに元の生活を取り戻そうとする社会で生活していくのに息苦しさすら感じる。なんとかこの変化を持続できないものか。学校再開を目の前にしてとてもとても不安だ。

政治について思うことを書いてみる。

今日の昼の話

 今日の昼間、たまたま国会中継(主たる議論はCovid-19対応策について)を見かけました。森友学園の問題が議題に上がっていた際一度聞いたことはありますが、それ以来だったので新鮮でした。以前は何を話しているのか理解できませんでしたが、多少知識がついたのか内容が理解できるようになっていて成長を感じます。政治やリーダー論などを様々な本で読んだ上で答弁を聞いているといろいろ思うところがあったのでまとめてみます。

国会の答弁はどうあるべきか?

 僕は各大臣のようなリーダー層が集まる答弁で話し合うべきは①大局的な方向性 と ②瞬時に下す必要のある決断 についてだと思います。

 まず①について。前回記事を書いた際にも触れましたが、現状、民主主義においてリーダーがやるべきことは大局的な方針を自分の責任の下で示すことだと思います。(テスラ社 社長 Elon Musk氏のように徹底的に細部までリーダーが干渉するというやり方も注目されていますが、民主主義ではそのような万能なリーダーを多数立てるのは難しいと感じています。なので、現状リーダーは大局的な議論にとどまるべきだというのが僕の持論です。)今日、国会中継を見る限り(すべて見たわけではないので不確かですが)この①のような議論はなされていませんでした。超細部の、例えば給付金の申請方法などについて答弁がなされており、野党が揚げ足取りをしているようにしか感じられませんでした。確かに現場で起きていることを大臣が把握をして方針を定めていくことは大切だと思いますが、これを追及することが目的の答弁だとは感じられませんでした。

 続いて②について。組織を動かしていく以上、何か決断を下すとき様々な手続きを取らないといけないと思います。しかし、それでは即座に必要な決断が遅れてしまします。そこで、大胆な、かつスピードが必要な議論に関しては国会などのリーダーが集まる場で決断し、一気に実行していくことが必要だと思います。その点、給付金による継続的な支援について総理大臣に明言を求めるような言及は素晴らしいと思います。(総理大臣も独断で決断できることではないと思いますが、全体的に保守的な発言になりつつあるのは残念でした。しかし、そういうシステムに根本的な問題があるのだろうし、その改善が果てしなく難しいということを改めて実感しました。)

 以上のように国会が下すべき決断の種類をそれぞれが意識して運営していくことで建設的な議論になると感じました。

オンラインのメリットを生かしたやり方を提案

 話はそれますが、そもそも国会が正に「3密」になっているではないか!と思いました笑 橋下徹氏も強く訴えていますが、国会のオンラインでの実施は急務だと感じます。(実質的に3密を避ける意味合いと、国民全体に訴えかけている国会の立場的、啓蒙的な意味合いで)しかし、教育について書いた時からいっているようにオンライン化で現状を再現するのではなく、メリットを最大限生かして新たな形を生み出していくべきだと思います。そこで、私が思う理想的なオンライン国会をまとめてみます。

 僕が思うオンライン化のメリットは実質、限りなく多くの人が参加できるようになることです。さきほど揚げ足取りになっているという話をしましたが、そのほとんどが細部の「数字」等に関する決定のプロセスをつつくようなものです。そのような議論は国会ですべきでないというのが私の意見ですが、もしするならば(もしくは必要がある場合は)オンラインによる実施が効力を発揮すると思います。具体的にはこうです。まず、各リーダー層だけでなく、その組織の中のより多くの人が国会の議論に参加します。(オンラインになれば場所の制約がなくなり可能になるわけです。)基本的にはリーダー層が議論をしますが、細部に関して議論が必要になったときはその担当者が発言できるようにするわけです。そうすれば、大臣が細部をすべて把握するような不毛な努力も、細部をつついて揚げ足取りをするようなこともなくなり、より建設的な議論になると思います。また些細なことですが、議長に指名されて演壇まで歩き、発言が終わったら席に戻り、という繰り返しや、その他諸々の無駄が多い気がしました。オンラインなら国会への移動時間なども含めてさらに無駄が減らせると思います。

教育との絡みはどうすべきか?

 ここまで私の考える理想的な国会の運営をまとめてきましたが、そもそもこれは民主主義の下で主権者が選んだ議員さんたちがやっているということを忘れていはいけないと思います。(これはネットの書き込みやテレビでのコメンテータの方などの話を聞いていて、あくまで国民が選んだ代表であるという意識が足りないように感じたので言っています。まるで政治家を国民の敵のように扱う発言を見かけますが、彼らの行動の本質的な責任は主権者である私たちにあるはずです。だからこそ選挙権、ひいては被選挙権を十二分に行使して、それを前提に意見すべきだと感じています。)すると、理想的な国会運営をしていくためにはそれが実現可能な人を選ぶこと、つまり主権者である国民が理想的な国会の運営をまなび、実現にむけて行動すべきだということです。そのために教育が重要なのであり、僕が教育について書いた際の教育の意義①にあたります。

 この観点で考えると「公民」の授業がいかに重要であるかがわかります。一方で、これまで実際に授業を受けてきた中では「公民」の授業が理想的な政治の実現に貢献しているようには感じられませんでした。(少なくとも僕が今こうして政治について考えるための予備知識を与えてくれたという意味では貢献しているのかもしれませんが、この予備知識を使って政治について考えている人の少なさを見るとあまり貢献していないと思います。)そこには、先生方が政治的な主張を持ち込めないというところが原因ではないかと考察します。つまり、政治についての意見の持ち方を教えづらいという現状があるわけです。ではどうすべきか。ここでまた登場するのがアクティブラーニングです。(ここまでに二回リンクを張った記事で詳しく書いています。)先生方の「補助」のもとで政治について学校で議論するような場が生まれればより政治に対する関心と、議論をする技術・知識水準が高まり理想的な政治運営につながると感じています。

 

学びについて思うことをまとめてみる。

はじめに

 今回は一高校生がこれまで実際に教育を受けて学ぶなかで感じてきたことを、自分の学びと混合しながらひとつ意見を書いてみようと思います。ただ、教育はとてもセンシティブな内容で、偏見も多く入ると思いますがご了承ください。では始めます。

学びとは?

 僕が思うに学びは以下の二つも側面があると考えます。

  1. 好奇心を追求する手段としての側面
  2. 国力維持に向けた国民の学力維持、向上のため道具としての側面

 1つ目は学びの原型で、人間が持つ好奇心にしたがい、物事の本質を見極めようとする中で生まれる行為だと考えています。とくに19世紀以降ほぼ一世紀の間に営まれていた科学*1がその象徴的な形だと思います。各々が単に興味のある分野について真理を追究し、そのコミュニティーの中で共有することを楽しんでいた時代です。ここでは学びはあくまで好奇心追求の手段であったと認識しています。*2

2つ目は現在の一般的な教育の認識だと思います。多くの人が自分の意志に関係なく6,7歳にして最初の義務教育を受け、気づいた時には何年も生活の主体になっている教育です。この教育に対して嫌悪感を抱いている人も多いように思います。この1と2の矛盾に違和感を覚えて今書いているようなことを頭の中で考え始めたように思います。

 僕がここ最近自分でも教育を受けながら考えていることは、今書いた矛盾の解消です。国力維持における教育の重要性はとても大きなものだと認識しています。識字能力はその最たるもので、明治維新の際には他国に類を見ない平和的改革をもたらした主要因であったということを聞きました。現代においては、生活に科学技術が深く広く介入しており、私たちがそれらについて多少なりとも理解しておくことに対する必要があるでしょう。それは民主主義である以上、主権を持つ国民が生活について理解をし、意見を持つことが重要だからです。

 しかし、そのために好奇心の追求、つまり至高の幸福体験であったはずの学びがなされていないことは無視できないと感じています。また、学びはその好奇心があってこそ本来の力を発揮するものだと思うのです。この矛盾を解消する手立てになるものこそアクティブラーニングではないでしょうか。

アクティブラーニングの本質とは?

 最初の記事でも書きましたが、僕は高校で新聞部として活動しています。その中で一面のコラム(天声人語のようなもの)を書く機会がありました。ちょうどアクティブラーニングに関して興味があったので高校生の視点から一つ意見を書いてみようと本を読んだり*3、顧問と話し合って意見をまとめました。その際、自分の中で出来上がったアクティブラーニングの理想像とその効果をまとめてみます。

 まず学習指導要領でのアクティブラーニングの認識は「主体的・対話的で深い学び」とされています。僕が思うに、ハーバード白熱教室*4などに代表されるようなアクティブな授業がイメージされているんだと思います。これは本当に偏見ですが、グローバル化の中での対話に対する日本人の苦手意識があらわれているような気もします笑。さて、実際、中学生のころからアクティブラーニングと題して友人との対話をベースにした授業がそこそこの頻度で行われてきました。しかし、私は全くと言っていいほど深い学びができたとは感じていません。ただの「対話」になっているのです。この私の感触(ビジネスの世界では「現場の声」などと呼ぶのでしょうか笑)がカギだと思っています。あの、ハーバード白熱教室と日本の授業風景は何が違うのか。それは生徒たちが前提知識をもって話しているのかどうかという部分だと思います。授業風景をみるだけの私たちには、いわゆる海外の人*5は発言力があって、自分の意見をよく持っているという風にしか感じられません。しかし、実際は私たちには見えていない授業前の時間に、大量の知識を学んだうえであの授業に参加しているのです。これが日本のアクティブラーニングに欠けているものです。文科省の学習指導要領を作っている人たちがこれを理解したうえで言っているのかどうかはさておき、少なくとも実際に授業をしている先生たちにはそこが伝わっていないような気がします。

 では、僕が思うアクティブラーニングとは何なのか。それは知識をベースにした対話で「自分の意見をアウトプット」し、「自分とは違った意見を吸収」することでより深い学びを得ることです。あくまで自分である程度の知識は学んだうえで対話をする必要があるのです。このアクティブラーニングの体験談をお話しします。これは意図して起きたことではないのですが、自然とやっているうちに本質的なアクティブラーニングになっていると気づいたものです。

 僕は映像授業で友人と同じ講座を学んでいます。物理に関する講座なのですが、この講座は理解が大変難しく、到底一人で深い理解にたどり着けるものではありません。そこで、その友人とお互いに質問をしあって深めていくことにしました。すると、授業内容について対話をする中でアウトプットとインプットを繰り返し、さらに発展的な理解ができることにきがつきました。以前から人に教えることで理解が深まることは何となく実感をしていましたが、このアクティブラーニングはさらに短時間で深い理解にたどり着くことのできる有効な手段です。

 では、最初に書いたことですが、なぜこれが1と2の矛盾を解消できるのか。もしアクティブラーニングを授業で実現することができれば、ある程度の教育を普遍的に施せるうえに、学びに対する喜びや好奇心の追求を失うことはないからです。だからこそ、僕は「本質的な」アクティブラーニングを推進していくべきだと思うのです。

オンライン学習での気づき

 さて、昨今の状況もあり、私の通う高校ではオンライン学習が試験導入されました。ここではその中で見えてきたものと、ここまでに書いてきたアクティブラーニングを絡めてお話ししようと思います。

 私が体験したオンライン授業はZoomで学校と生徒の家をつなぎ、先生の授業を受けるものです。感じたメリットとデメリットを以下に挙げてみます。

<メリット>

・生授業とは違って自分が学べているかを客観視できる。(生授業だと教室に座っているだけで何か勉強した気になってしまう現象を避けられる。)

・授業を受けるまでの労力がとても少なく楽(移動することも、荷物を運ぶこともない気軽さはとても大きい)

<デメリット>

・発言のタイミングが掴みづらい(日本人特有の「空気を読む」が発揮しづらいのです。)

・通信の壁を乗り越えられない(相手の発言が途切れる、自分の発言が相手に届かないなど)

と、上げてみましたが特に注目したいのはメリットの一つ目です。他の三つは技術的なものでしかないと思いますが、一つ目に関してはとても重要な洞察を与えてくれていると思います。オンラインになると、これまでとは違い学びの質が客観的に分析されることになります。ここで授業の本質とは何なのかを考えてみました。

 休校期間に入ってから自習を続けてきましたが、その中で気づいたのは「知識の詰め込みなら自分でやったほうが早い」ということです。自分の理解のペースに合わせて進めるのでよっぽど効率がいいのです。また、簡単な演習なら先生と一対一の短時間で行う質問対応で十分、ましてや授業より効率よく進むことができます。(一つ言うなら自己管理を徹底しないといけないという課題はありますが。)*6では、そうなったときに授業がもたらす本質的な価値は何なのか。それがアクティブラーニングだと思うのです。個人個人で知識のベースを効率よく短時間で構築し、これによって生まれる余剰時間(知識取得の効率化によって生まれる時間と通学時間などのオンライン化によって実質なくなる時間)を授業として使ってアクティブラーニングを重ねるのです。これが、僕が描く理想的な教育です。

最後に

 今回初めて僕が頭の中で考えてきた教育に対する意見を明文化しましたが、やはりアウトプットすることほど思考の整理に有効なものはないと感じました。

 また、思っている以上に自分の考えは学んできたものの混合であるかがよくわかる1時間50分(今回このブログにかけた編集時間)でした。こんな風に混合の状態を書き出していけば、さらにインプット、アウトプットの質が上がっていくだろうと感じました。ではまた。

*1:科学と技術を混同せずに考えたときの科学。

*2:村上陽一郎 学鐙 3 「科学・技術の歴史の中での社会」(2002-3) +Yuval Noah Harari 「サピエンス全史」による。こんな風に自分が学んだ内容を混合しながら意見をまとめていくことにします。(これがブログタイトルの混合が意味するところです。)ちなみに前者は現代文の授業で扱っていただいたもので、教科書に載っている文章の味わい深さを実感させられます。しかし教育について話しながら教育されたものを参照するのはどうなのでしょうか笑

*3:池上彰佐藤優 「教育激変-2020年、大学入試と学習指導要領大改革のゆくえ」 記事執筆の際に顧問の先生から貸していただいた本で、学習指導要領に記載されているアクティブラーニングとは何なのかについて理解を深めることができました。

*4:2010年にNHKで放送されたHarvard大学 Michael Sandel氏による講義の番組名。現代社会における「正義」とは何かを考える授業。講堂に集まる生徒との「対話」で授業が展開されていく。

*5:僕は海外という言い回しが嫌いなので注釈をつけました。海外と言う言い方は他国のことをきちんと分析することを放棄してひとまとめに扱っているような、悲観的な感情が見えて好みじゃないので僕はあまり使いません。今回はよく言われる日本人とはちがうように見える人たちの総称として使いました。

*6:この感想は僕自身の体感で、全員に当てはまることではないと思います。なので、これも個人個人が学び方を選べるような多様性の高い時代になればいいなという風に思います。「多様性」は最近僕の中でのキーワードで、機会があれば何か書いてみようと思います。