混合で描く未来のかたち

アイディアの有機的な結びつきで未来を描こうという高校生による小さなこころみ。

趣深さとアナログの演算装置。

刺激探しの旅へ。

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 今日は「PIXARのひみつ展」なるものに行ってきました。ここ最近AO入試に向けて資料を書いているのですが、画面ばかり見つめていると心が貧しくなってきて、アイディアが浮かばなくなっていました。刺激をもらおうと思い、展覧会一覧を眺めているときに面白そうなのを見つけたわけです。以前、長崎の県立博物館でPIXARの原画展があったのですが行けずじまいで、同じくPIXARの展示を観に行ってみることにしました。

 この展示の主眼は「いかにしてPIXARの映画が作られるのか」です。ストーリ作りからキャラクターのデザインスケッチ、粘土による造形、コンピュータでのモデリング、表面処理、アニメーション、フレーミングレンダリングまで、映画を見るときには全く意識しない制作の過程を丁寧に解説してくれます。何より素晴らしいのが体験型であること。少しは大人になって映像や文章を読むのも楽しめるようになりましたが、やっぱり実物を見るのが一番楽しいわけです。映像で実際の作業を観た後に、その実物が所狭しと並んでいるのを見るとものすごく興奮します。さらに、映像作成を体験できるワークスペースも多く、自分でパラメータをいじることで実際のディズニーキャラクターの挙動が変容していく様子を楽しめます。一番面白かったのはライティングを体験できるブース。実物の横でコンピュータによって映像として再現されていく様子が感動的でした。

仕事の縦割り横割り。

 そんな中で感じたのがPIXARの働き方の面白さです。映像でたくさんの技術者の方が紹介されているのですが、よくイメージする大企業の働き方とは全く違うものでした。僕の中で大企業のイメージはこんな感じです。

「上から次々に仕事が細分化されて下っていき、たどり着いた先では結局何をやってるのかわからない。振り返ってみると社会に貢献しているものの、振り返らないと実感できない。毎日は目の前の作業に追われてモチベーションが保てない。」

 仕事が細分化されすぎて、自分のやっていることと、社会とのつながりが見えないことが原因だと思います。僕は、この構造はどうしようもないものだと思っていました。規模がでかくなるとそうするしかない、と。

 しかし、ピクサーの働き方はそうでないように思います。例えば粘土でモデルを作っている人のこだわりは、コンピュータモデリングの担当がうまく拾ってくれて、最終的に作品に反映される。アニメーションの担当は、どれだけ短い秒数の映像だとしても、自分のこだわりが着実に映画の一部となって反映されていく様子が体感できる。この、仕事が横に分割されつつ、有機的に結びついている感じが高いモチベーションを生んでいるように感じました。だからこそ、それぞれのモチベーションが正のインセンティブになって、映像に映るだれもが「思考停止していない」ように見えるのです。常に改善の余地を探していて、そこにコミットして自分の能力を発揮しきっている。しかも、それが有機的な結びつきで映画に反映されていく。こんなにクリエイティブな仕事を久しぶりに見た気がします。

 最近、将来何をしたいのかよくわからなくなっていました。でも、PIXARのお仕事を見ていると、やっていることよりも、一緒に仕事をする仲間がクリエイティブで常に思考してて、やりたいことを実践してそれが反映されていくような環境があればどんな仕事でも楽しい気がしてきました。そんな環境を手に入れるためには自分がクリエイティブじゃなきゃいけないし、思考し続けなきゃいけないと思います。そんな力を大学で高めたい。

 

PIXARのひみつ展/THE SCIENCE BEHIND PIXAR

 そんなPIXAR展を堪能し、活気を取り戻しました。すると自然に思考するエネルギーがわいてきて、いろいろなことを考えました。その一つが、日本で見るタイトルの趣浅さです。例えば今回の展覧会。和名は「PIXARのひみつ展」、米名は「THE SCIENCE BEHIND PIXAR」。米名では決して「ひみつ」とは言わないのです。「Behind」。ただ、科学の後ろに隠れているんです。しかし、いざ自分で考えてみると、日本語の表現でうまく秘密を暗示するのは難しいように感じます。だけれど、日本語がそんなに趣を含有できない言語であったはずがないと思うのです。

 学校の古典の教科書にこんな文章がありました。

歌の詮とすべきふしをさはさはと言い表したれば、むげにこと浅くなりぬるなり。/無名抄 鴨長明

「歌の大切にするべきところをそのままあっさりと言い表してしまっては、ひどく趣が浅くなってしまった。」と訳されます。つまり、俳句で大切な部分は相手に想像させるから美しいと言っているのです。日本は「五・七・五」のたった十七音で日常を切り取って、相手に想像させる美しい文化を継承してきました。ただ、今の僕にはその表現を使いこなすことができない。うまく文化を継承できていないことを痛感しました。

 しかし、この大切な部分を言ってしまうのは言語的な背景からだけではない気もします。例えば「カールじいさんの空飛ぶ家」というPIXARの映画。日本で使用されたポスターとアメリカで使用されたものを比較すると驚きます。

 

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 米名はたったの二文字「UP」。さらにポスターに使われているのはこの二文字とロゴだけです。なんというシンプルさ。ポスター自体が一つのアート作品のような美しさです。だからこそ、これを見た人々はたくさんの想像を膨らませる。何が飛んでいるのか。家のかたちをした飛行船か、それとも本当に家が飛んでいるのか。少女が出てきて空を飛ぶのか、妖精か、天使か、はたまたお爺さんか。

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 一方日本のもの。タイトルにすべて書いてしまっているのです。カールというおじいさんがでてくること、家が空を飛ぶこと、モンスターズインクの監督の作品であること、おじいさんが夢をあたえてくれること。すべて書かれてます。想像の幅がまるで違うわけです。これではまさに「歌の詮とすべきふしをさはさはと言い表して」しまっているように思います。

 「飛び立つ!」とか「上!」とか、そんな漠然としたタイトルでも別にいいと思うのです。だけどそれをいまの日本の文化は受け入れられない。そうなると単に感性の豊かさが失われているような気がして、残念でなりません。

 

レンズはアナログの計算機。数式が描き出す自然の光。

 今度は視点を変えて。PIXAR展の中ではとにかく映像を作り出す苦労を感じました。何より驚いたのはレンダリングに掛かる時間。3Dのモデルから映像を書き出すのに1フレーム平均24時間。1秒間に24回も切り替わるその1フレームを書き出すのにまる一日かかるというのです。何という処理の膨大さ。しかもが最新鋭の巨大コンピュータで処理しての時間です。そんなことを体感した帰り、バスの窓を流れていく海、都会の風景、マスクをつけた人々の姿を見ているとすべてが目に入ってくる光だということを鮮明に感じられて、以前落合さんがお話していた内容が思い出されました。

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レンズがアナログの演算装置だという話です。初めに聞いた時は何となく納得できるような、できないような変な感覚でしたが、少なくともその考え方が好きで、ずっと頭の中に残っていました。それが今日突然浮かんできて、自然に理解できたような気がします。

 映像を再現するにしても、それはすべて自然現象のモデル化です。自然に起きていることを数式としてモデル化して、それを計算機に処理させる。その果てしないプロセスがアナログだと光の速さで一瞬にして完結してしまうのです。

 以前、物理の授業でベクトルの内積について感動した話があります。それは数学と物理が美しく組み合わさっていることについてです。「内積というのは数学的に美しい演算方法として数学者たちが考案した。その計算方法を物理に適用するとまったく同じ現象が現実世界で起きている」というのです。なにも意識していない私たちの生活する世界、さらに言うと私たち自身はすべて「物理法則」にしたがっているらしく、今だその例外はありません。常に例外は新たな法則として統合されて、簡潔に説明されていく。こんなに美しい話があるでしょうか。この映像が瞬時にアナログに計算されて網膜に入ってくる感覚は、万物が物理法則にしたがう美しさを感じられるいい機会だなぁと思います。そんな感覚を「レンズはアナログの演算装置」という言葉に感じて、納得しました。

今日はそんな刺激と思考の一日でした。