混合で描く未来のかたち

アイディアの有機的な結びつきで未来を描こうという高校生による小さなこころみ。

学びについて思うことをまとめてみる。

はじめに

 今回は一高校生がこれまで実際に教育を受けて学ぶなかで感じてきたことを、自分の学びと混合しながらひとつ意見を書いてみようと思います。ただ、教育はとてもセンシティブな内容で、偏見も多く入ると思いますがご了承ください。では始めます。

学びとは?

 僕が思うに学びは以下の二つも側面があると考えます。

  1. 好奇心を追求する手段としての側面
  2. 国力維持に向けた国民の学力維持、向上のため道具としての側面

 1つ目は学びの原型で、人間が持つ好奇心にしたがい、物事の本質を見極めようとする中で生まれる行為だと考えています。とくに19世紀以降ほぼ一世紀の間に営まれていた科学*1がその象徴的な形だと思います。各々が単に興味のある分野について真理を追究し、そのコミュニティーの中で共有することを楽しんでいた時代です。ここでは学びはあくまで好奇心追求の手段であったと認識しています。*2

2つ目は現在の一般的な教育の認識だと思います。多くの人が自分の意志に関係なく6,7歳にして最初の義務教育を受け、気づいた時には何年も生活の主体になっている教育です。この教育に対して嫌悪感を抱いている人も多いように思います。この1と2の矛盾に違和感を覚えて今書いているようなことを頭の中で考え始めたように思います。

 僕がここ最近自分でも教育を受けながら考えていることは、今書いた矛盾の解消です。国力維持における教育の重要性はとても大きなものだと認識しています。識字能力はその最たるもので、明治維新の際には他国に類を見ない平和的改革をもたらした主要因であったということを聞きました。現代においては、生活に科学技術が深く広く介入しており、私たちがそれらについて多少なりとも理解しておくことに対する必要があるでしょう。それは民主主義である以上、主権を持つ国民が生活について理解をし、意見を持つことが重要だからです。

 しかし、そのために好奇心の追求、つまり至高の幸福体験であったはずの学びがなされていないことは無視できないと感じています。また、学びはその好奇心があってこそ本来の力を発揮するものだと思うのです。この矛盾を解消する手立てになるものこそアクティブラーニングではないでしょうか。

アクティブラーニングの本質とは?

 最初の記事でも書きましたが、僕は高校で新聞部として活動しています。その中で一面のコラム(天声人語のようなもの)を書く機会がありました。ちょうどアクティブラーニングに関して興味があったので高校生の視点から一つ意見を書いてみようと本を読んだり*3、顧問と話し合って意見をまとめました。その際、自分の中で出来上がったアクティブラーニングの理想像とその効果をまとめてみます。

 まず学習指導要領でのアクティブラーニングの認識は「主体的・対話的で深い学び」とされています。僕が思うに、ハーバード白熱教室*4などに代表されるようなアクティブな授業がイメージされているんだと思います。これは本当に偏見ですが、グローバル化の中での対話に対する日本人の苦手意識があらわれているような気もします笑。さて、実際、中学生のころからアクティブラーニングと題して友人との対話をベースにした授業がそこそこの頻度で行われてきました。しかし、私は全くと言っていいほど深い学びができたとは感じていません。ただの「対話」になっているのです。この私の感触(ビジネスの世界では「現場の声」などと呼ぶのでしょうか笑)がカギだと思っています。あの、ハーバード白熱教室と日本の授業風景は何が違うのか。それは生徒たちが前提知識をもって話しているのかどうかという部分だと思います。授業風景をみるだけの私たちには、いわゆる海外の人*5は発言力があって、自分の意見をよく持っているという風にしか感じられません。しかし、実際は私たちには見えていない授業前の時間に、大量の知識を学んだうえであの授業に参加しているのです。これが日本のアクティブラーニングに欠けているものです。文科省の学習指導要領を作っている人たちがこれを理解したうえで言っているのかどうかはさておき、少なくとも実際に授業をしている先生たちにはそこが伝わっていないような気がします。

 では、僕が思うアクティブラーニングとは何なのか。それは知識をベースにした対話で「自分の意見をアウトプット」し、「自分とは違った意見を吸収」することでより深い学びを得ることです。あくまで自分である程度の知識は学んだうえで対話をする必要があるのです。このアクティブラーニングの体験談をお話しします。これは意図して起きたことではないのですが、自然とやっているうちに本質的なアクティブラーニングになっていると気づいたものです。

 僕は映像授業で友人と同じ講座を学んでいます。物理に関する講座なのですが、この講座は理解が大変難しく、到底一人で深い理解にたどり着けるものではありません。そこで、その友人とお互いに質問をしあって深めていくことにしました。すると、授業内容について対話をする中でアウトプットとインプットを繰り返し、さらに発展的な理解ができることにきがつきました。以前から人に教えることで理解が深まることは何となく実感をしていましたが、このアクティブラーニングはさらに短時間で深い理解にたどり着くことのできる有効な手段です。

 では、最初に書いたことですが、なぜこれが1と2の矛盾を解消できるのか。もしアクティブラーニングを授業で実現することができれば、ある程度の教育を普遍的に施せるうえに、学びに対する喜びや好奇心の追求を失うことはないからです。だからこそ、僕は「本質的な」アクティブラーニングを推進していくべきだと思うのです。

オンライン学習での気づき

 さて、昨今の状況もあり、私の通う高校ではオンライン学習が試験導入されました。ここではその中で見えてきたものと、ここまでに書いてきたアクティブラーニングを絡めてお話ししようと思います。

 私が体験したオンライン授業はZoomで学校と生徒の家をつなぎ、先生の授業を受けるものです。感じたメリットとデメリットを以下に挙げてみます。

<メリット>

・生授業とは違って自分が学べているかを客観視できる。(生授業だと教室に座っているだけで何か勉強した気になってしまう現象を避けられる。)

・授業を受けるまでの労力がとても少なく楽(移動することも、荷物を運ぶこともない気軽さはとても大きい)

<デメリット>

・発言のタイミングが掴みづらい(日本人特有の「空気を読む」が発揮しづらいのです。)

・通信の壁を乗り越えられない(相手の発言が途切れる、自分の発言が相手に届かないなど)

と、上げてみましたが特に注目したいのはメリットの一つ目です。他の三つは技術的なものでしかないと思いますが、一つ目に関してはとても重要な洞察を与えてくれていると思います。オンラインになると、これまでとは違い学びの質が客観的に分析されることになります。ここで授業の本質とは何なのかを考えてみました。

 休校期間に入ってから自習を続けてきましたが、その中で気づいたのは「知識の詰め込みなら自分でやったほうが早い」ということです。自分の理解のペースに合わせて進めるのでよっぽど効率がいいのです。また、簡単な演習なら先生と一対一の短時間で行う質問対応で十分、ましてや授業より効率よく進むことができます。(一つ言うなら自己管理を徹底しないといけないという課題はありますが。)*6では、そうなったときに授業がもたらす本質的な価値は何なのか。それがアクティブラーニングだと思うのです。個人個人で知識のベースを効率よく短時間で構築し、これによって生まれる余剰時間(知識取得の効率化によって生まれる時間と通学時間などのオンライン化によって実質なくなる時間)を授業として使ってアクティブラーニングを重ねるのです。これが、僕が描く理想的な教育です。

最後に

 今回初めて僕が頭の中で考えてきた教育に対する意見を明文化しましたが、やはりアウトプットすることほど思考の整理に有効なものはないと感じました。

 また、思っている以上に自分の考えは学んできたものの混合であるかがよくわかる1時間50分(今回このブログにかけた編集時間)でした。こんな風に混合の状態を書き出していけば、さらにインプット、アウトプットの質が上がっていくだろうと感じました。ではまた。

*1:科学と技術を混同せずに考えたときの科学。

*2:村上陽一郎 学鐙 3 「科学・技術の歴史の中での社会」(2002-3) +Yuval Noah Harari 「サピエンス全史」による。こんな風に自分が学んだ内容を混合しながら意見をまとめていくことにします。(これがブログタイトルの混合が意味するところです。)ちなみに前者は現代文の授業で扱っていただいたもので、教科書に載っている文章の味わい深さを実感させられます。しかし教育について話しながら教育されたものを参照するのはどうなのでしょうか笑

*3:池上彰佐藤優 「教育激変-2020年、大学入試と学習指導要領大改革のゆくえ」 記事執筆の際に顧問の先生から貸していただいた本で、学習指導要領に記載されているアクティブラーニングとは何なのかについて理解を深めることができました。

*4:2010年にNHKで放送されたHarvard大学 Michael Sandel氏による講義の番組名。現代社会における「正義」とは何かを考える授業。講堂に集まる生徒との「対話」で授業が展開されていく。

*5:僕は海外という言い回しが嫌いなので注釈をつけました。海外と言う言い方は他国のことをきちんと分析することを放棄してひとまとめに扱っているような、悲観的な感情が見えて好みじゃないので僕はあまり使いません。今回はよく言われる日本人とはちがうように見える人たちの総称として使いました。

*6:この感想は僕自身の体感で、全員に当てはまることではないと思います。なので、これも個人個人が学び方を選べるような多様性の高い時代になればいいなという風に思います。「多様性」は最近僕の中でのキーワードで、機会があれば何か書いてみようと思います。