混合で描く未来のかたち

アイディアの有機的な結びつきで未来を描こうという高校生による小さなこころみ。

AIと対話をしてみた今日一日。

テクノロジーに溢れた世界

 今日は本当に小さなちいさな気付きをほんの少しまとめてみる。ここ最近、自分は道具に囲まれて過ごしているんだとものすごく感じるようになった。今文字を打っているキーボードは顔も見たことのない誰かがデザインして、組み立ててくれたもの。座っている椅子もどこか外国から送られてきた、どんな風に作られたのかすら知らないもの。周りを見渡すと何一つ自分で作ったものはない。そう考えると気持ち悪くなってきて、自分にはなにができるんだろうかって感じる。かといってこの道具を捨てられないジレンマもある。

 ところがもっともっと大きな問題がある。それがデジタルのテクノロジーだ。今日は画面に向かって何度も微笑んだし、怪訝な顔もした。その間には自分の指先からたくさんのデータがトラッキングされていて、日々自分の内側が吸い取られていく。そしてデータをもとにたくさんの情報が送られてきて、自分の興味が塗り重ねられていく。意識すれば今はまだ感じられることがが、日々、自分の感覚から薄れていく。その感覚がものすごく気持ち悪い。テクノロジーが生活に溶け込んでいく、落合陽一さんのいう「デジタルネイチャー」なのかな、と思う。その考え方は好きなんだけど、自分がその計算機自然に溶け込んでいく感覚はあまり好きではない。

 

AIとBig Dataと正しく付き合う

 そんなことを感じていた今日、逆にテクノロジーを使い倒してやろうと思った。Apple Musicに自分の興味を思う存分注ぎ込んだ。好きな曲に「ラブ」「らぶ」「Love」した。すると驚くほどApple Musicが自分のものになった。体の一部になりつつあるAir Podsからは心の踊る音楽が蛇口のように絶え間なく流れだした。聞いたこともないのに惹かれる曲までレコメンドしてくる。

 Instagramでもハッシュタグをフォローしまくった。フォローするたびに自分のためのハッシュタグがポップアップする。押せば押すほど自分の内側に迫ってきて、その感覚は気持ち悪いけれど、自分でも気づかなかった興味にどんどん焦点が合わさっていく楽しさもあった。

 ある意味、AIを正しく使った。適切なデータを与えて、天才たちがデザインしたAIに自分のことを教えてもらった。ものすごく便利だけど、自分がどんどん画一化されていくような気がする。独創的になろうとしている人としてグループ化されて画一化されていくのはものすごく悲しい。

 

辞書の学術的な役割と、ブログの自分にとっての役割。

 「英文解釈の透視図」という難関大学の英語入試問題ばかりを集めた問題集がある。もちろん、いわゆる「受験勉強」に効果的な本であるとは思いつつも、それ以上に示唆に富んだ文章を和訳しながらも楽しんでいる。そこにこんな文章がある。

The dictionary does more than record. 

 著者は「辞書は記録するにとどまらない」と和訳する。この一文が意味するのは、辞書はその意味を人々に「教育する」という役割も担う。しかし、その過程で元来の意味から人々が気づかないほどゆっくりと変化しながら伝わってしまう。そしてその変化を次の時代の辞書が再び記録するのだ。

 また、私の愛用する「ジーニアス英和辞典」のまえがきには、

辞書に書かれた文章は出版と同時に過去のものになる。 

 といったようなことが、小西友七先生の言葉として書き記されていた。

 そんな辞書という不思議な書物のことを考えながら生活をする中で、このブログが私自身の思考を記録していく辞書のように思えてきた。AIによって勝手に記録されていくのも悪くはないと思うが、やっぱり自分自身の意思で、自分で自分を形作っていきたいと思う。AIによって自分たち自身までもが記録され、さらに上書きされていく感覚をここに書き記しながら、将来の自分がこの感覚を忘れていないことを祈る。