混合で描く未来のかたち

アイディアの有機的な結びつきで未来を描こうという高校生による小さなこころみ。

芸術とお洒落、伝統と固執。

言葉が切り取る概念の曖昧さ。

ここ最近感じる言葉の違和感について書いてみようと思います。今までにも言葉の違和感を感じる場面はよくありました。例えば学校の先生の指導。(今うまい具体例を思いつかないので、また追記します。)論理的には何の根拠もないんだけれど何となく正しいような気がして、先生たちが昔指導されていたころからずっと使いまわされてきたんだろうなっていうような表現を聞くことがよく合って、そのたびにとても不思議に感じてきました。ここ最近、そんな言葉の違和感というか、意味の曖昧さがゆえに言葉が切り取っている概念が本質から遠ざかってしまっているようなものをいくつか見つけたので、そこに共通点を見出してみたいと思います。

芸術的とお洒落。

 「芸術的」と「おしゃれ」は全く違う概念だと思います。芸術的、というのは言葉で表すことのできる範疇を逸脱したもっと複雑な、人間の心の奥にある深いものを何とかして取り出した、みたいな。例えばピカソの絵画。僕が見ている世界とはかけ離れた、大きくゆがんでいて、奇妙な色の世界が広がっています。単に歪んでいるのではなくて、その背景にピカソが人間の心理を追及してその結果、析出した結晶だからこそ価値があると思うのです。

 これは最近日常会話で用いられる「芸術的」とか「アーティスティック」などという言葉を超越したなにかの表れのようなものがあると思っています。単にそのデザインがお洒落、とは性質が違うもののような気がするのです。お洒落というのはその内側というよりも何かをパッケージしたその外側に重きを置いた言葉だと思います。Instagramでよく見かける、「淡白な背景に鮮やかなワンポイント」とか、「大きな余白にふっとインパクトのあるもの」とか、内側にあるものよりその見た目の美しさを重視したようなものです。

なんだけれど、自分が生活をする中で耳にする「芸術的」っていうのは、何か不思議な絵画だったりオブジェだったり、その裏にある何か深いものの有無にかかわらず、どんなものでも「芸術」というひとくくりにしてしまっているような気がしています。

 僕が感じる危機感はこの「空疎なアート」が蔓延してしまわないのか、ということです。科学がなかば宗教的に崇拝され、絶対的な正しさとして認識されつつある今(もちろん科学は絶対的な正しさを認めないからこそより正確であり続けるのだけれど)、実は理論では構築しきれていない感情の内側にあるものとか、数式、言葉では表しきれないもっと複雑なものを表現する手段として芸術を残していくべきだと思っています。だからこそデザイン的な「おしゃれ」と表現の手段としての「芸術」は分けて考えるべきだと思います。(もちろん芸術を極めたものがおしゃれであるということは大いにあると思っています。それってものすごく不思議な現象で興味深いですよね。)

伝統と固執

 伝統というのは上記の芸術に似たようなもので、歴史的な文化が生活に根付いて深く豊かに醸成されたものだと思います。こういった伝統は理論で単純に説明して未来に保存しておくことができるような単純なものではないのです。その中に脈々と流れる、情報として取り出せない大切なものがあるからこそ、その伝統を守っていくことが大切なのだと思います。一方で、固執というのは単に変化を恐れて、現状にしがみついている状態です。

 この二つはその背景を観なければ一見同質的なもののように感じられます。この曖昧さを巧みに利用して、過去に固執しがちな日本人的感情の置き換えとして「伝統」を用いる文脈をよく見かけます。変化をしない理由として単なる過去の残留物に「伝統」と名前を付けて固執することを正当化するのです。

 僕にはこの状態が危険なものに見えて仕方がありません。人間は卓越的な変化への対応能力をもって現在の生物的地位を築いた生物であってそのほかの何物でもありません。なのにもかかわらず変化を恐れ、過去に固執し、しかもその固執をうまくパッケージングしてしまっている現状があります。さらに、大切な「伝統」と無意味な「固執」が同一視されていることもなお危険です。僕自身もこの伝統と固執の区別がつかなかったとき、とにかく「伝統」と呼ばれるものは排除すべきものだと勘違いしていました。それは「伝統」としてパッケージされた「固執」に対する嫌悪感が募っていたからです。だからこそ、この二つの言葉が切り取る概念をしっかりと区別すべきだと思っています。

自己目的化。

 ここ最近、現代文の授業で丸山眞男さんの「『である』ことと『する』こと」という文章を読んでいます。その中で「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化―物神化―を不断に警戒し、制度の実現の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、初めて生きたものになり得るのです。」という一文があります。この「自己目的化」という言葉について最近すごく考えていて、その中で今回書いたことを思いつきました。自己目的化していくプロセスってどうなっているのかを考えたときに、その一つとして今回上げたような抽象的な言葉の曖昧さがあると思います。その曖昧さが本来の大切な意ものと、無意味で非合理的なものを混同させて、それがものごとの自己目的化を生むのではないかと思います。だからこそ、常に物事の本質をとらえ続ける努力をする必要があると感じていて、その一つの努力としてこのブログを綴っていきたいと思っています。