混合で描く未来のかたち

アイディアの有機的な結びつきで未来を描こうという高校生による小さなこころみ。

捉え方による価値観の変容。

理解する、価値を生むということ。

 Covid-19によるStay Homeでたくさんのものがディジタルに置き換わり、その中で見えてきたアナログの価値については以前触れた。その中で、製品を買う、という行動を考えたときに感じた大切な価値を掘り下げてみると面白いことが見えてきたのでまとめてみる。

 

大切な持ち物の条件。

 自分が大切にしているものには2つのことが共通している気がする。

①物を手に入れるまでのプロセスを記憶していること。

 友人や恋人からもらったプレゼントなんかがいい例だ。そのもの以上に、プレゼントしてもらったときの喜びや相手との会話など物を手にするまでのストーリーが残り続けることに価値がある気がする。その点、いい雰囲気のなかでお洒落なパッケージに包むことでその物のストーリーを濃厚にして付加価値を生んでいる雑貨屋さんは素敵な仕事だと思う。

②そのモノが持つストーリーを理解していること。

 芸術作品はその最たる例だと思う。作品自体に価値があるのは間違いないのだが、それ以上にだれが、いつ、どんな気持ちで、何を表現しようとして生み出した作品なのかが大切な気がする。さらには、その評価されていて、誰もが聞いたことがある作品だということすら新しい価値を生み出しているような気がする。これは前回書いたことにも通ずることだが、そのものが持つバックストーリーを知っているからこそ、自分の中でより大切なものになっていると思う。

 

テクノロジーを理解するために必要なこと。

 今朝TEDのスピーチでものすごく面白いものを見つけた。


Shape-shifting tech will change work as we know it | Sean Follmer

単純にこのテクノロジーの不思議さから感じる面白さはあるが、僕はそれ以上にこの技術が描く未来の面白さを創造する中で面白さを感じた。

 これまで何度か書いてきたが、Covid-19によるStay Homeでたくさんの価値観が変わった。その中で最も大きかったのはリモートワークという概念が生活に溶け込んできたことだと思う。これまでの出社するという概念が、一瞬にして世界中に驚異的なスピードで置き換えられた。現状の技術で可能なリモートワークが注目されがちだが、逆に今リモートに置き換えられないことの注目してみる。すると、モノづくりの現場は現状ほぼ置き換え不能である。実際にモノを触って、それを共有しながら進める必要がある以上、簡単にはリモートワーク出来ない。これは、物理的な実体を電波に乗せる技術がないからだ。この技術的な流れを理解したうえでスピーチを聞くと捉え方が変わってくる。

 これこそまさに物理的な実体を電波に乗せて運ぶ根本的技術だ。同じような技術に3Dプリンティング技術がある。誰でも簡単に3次元の物体が作り出せることのフォーカスが当てられがちだが、それ以上に物理的な実体を電波に乗せて運べる技術だということに未来があると思う。これら二つの技術の解像度が上がり(画面の解像度が上がる感覚でスピーチのものならブロックの大きさが小さくなり、3Dプリンタなら積層が細かく、正確になっていくイメージ。)、速度も上がれば(スマホの通信速度のイメージで3Dプリンティングがもっと高速になれば)リモートでのモノづくりも可能になると思う。

 この全体観をとらえたものの理解こそが本質をとらえ、そのポテンシャルを最大限引き出す重要な考え方のような気がする。

芸術とお洒落、伝統と固執。

言葉が切り取る概念の曖昧さ。

ここ最近感じる言葉の違和感について書いてみようと思います。今までにも言葉の違和感を感じる場面はよくありました。例えば学校の先生の指導。(今うまい具体例を思いつかないので、また追記します。)論理的には何の根拠もないんだけれど何となく正しいような気がして、先生たちが昔指導されていたころからずっと使いまわされてきたんだろうなっていうような表現を聞くことがよく合って、そのたびにとても不思議に感じてきました。ここ最近、そんな言葉の違和感というか、意味の曖昧さがゆえに言葉が切り取っている概念が本質から遠ざかってしまっているようなものをいくつか見つけたので、そこに共通点を見出してみたいと思います。

芸術的とお洒落。

 「芸術的」と「おしゃれ」は全く違う概念だと思います。芸術的、というのは言葉で表すことのできる範疇を逸脱したもっと複雑な、人間の心の奥にある深いものを何とかして取り出した、みたいな。例えばピカソの絵画。僕が見ている世界とはかけ離れた、大きくゆがんでいて、奇妙な色の世界が広がっています。単に歪んでいるのではなくて、その背景にピカソが人間の心理を追及してその結果、析出した結晶だからこそ価値があると思うのです。

 これは最近日常会話で用いられる「芸術的」とか「アーティスティック」などという言葉を超越したなにかの表れのようなものがあると思っています。単にそのデザインがお洒落、とは性質が違うもののような気がするのです。お洒落というのはその内側というよりも何かをパッケージしたその外側に重きを置いた言葉だと思います。Instagramでよく見かける、「淡白な背景に鮮やかなワンポイント」とか、「大きな余白にふっとインパクトのあるもの」とか、内側にあるものよりその見た目の美しさを重視したようなものです。

なんだけれど、自分が生活をする中で耳にする「芸術的」っていうのは、何か不思議な絵画だったりオブジェだったり、その裏にある何か深いものの有無にかかわらず、どんなものでも「芸術」というひとくくりにしてしまっているような気がしています。

 僕が感じる危機感はこの「空疎なアート」が蔓延してしまわないのか、ということです。科学がなかば宗教的に崇拝され、絶対的な正しさとして認識されつつある今(もちろん科学は絶対的な正しさを認めないからこそより正確であり続けるのだけれど)、実は理論では構築しきれていない感情の内側にあるものとか、数式、言葉では表しきれないもっと複雑なものを表現する手段として芸術を残していくべきだと思っています。だからこそデザイン的な「おしゃれ」と表現の手段としての「芸術」は分けて考えるべきだと思います。(もちろん芸術を極めたものがおしゃれであるということは大いにあると思っています。それってものすごく不思議な現象で興味深いですよね。)

伝統と固執

 伝統というのは上記の芸術に似たようなもので、歴史的な文化が生活に根付いて深く豊かに醸成されたものだと思います。こういった伝統は理論で単純に説明して未来に保存しておくことができるような単純なものではないのです。その中に脈々と流れる、情報として取り出せない大切なものがあるからこそ、その伝統を守っていくことが大切なのだと思います。一方で、固執というのは単に変化を恐れて、現状にしがみついている状態です。

 この二つはその背景を観なければ一見同質的なもののように感じられます。この曖昧さを巧みに利用して、過去に固執しがちな日本人的感情の置き換えとして「伝統」を用いる文脈をよく見かけます。変化をしない理由として単なる過去の残留物に「伝統」と名前を付けて固執することを正当化するのです。

 僕にはこの状態が危険なものに見えて仕方がありません。人間は卓越的な変化への対応能力をもって現在の生物的地位を築いた生物であってそのほかの何物でもありません。なのにもかかわらず変化を恐れ、過去に固執し、しかもその固執をうまくパッケージングしてしまっている現状があります。さらに、大切な「伝統」と無意味な「固執」が同一視されていることもなお危険です。僕自身もこの伝統と固執の区別がつかなかったとき、とにかく「伝統」と呼ばれるものは排除すべきものだと勘違いしていました。それは「伝統」としてパッケージされた「固執」に対する嫌悪感が募っていたからです。だからこそ、この二つの言葉が切り取る概念をしっかりと区別すべきだと思っています。

自己目的化。

 ここ最近、現代文の授業で丸山眞男さんの「『である』ことと『する』こと」という文章を読んでいます。その中で「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化―物神化―を不断に警戒し、制度の実現の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、初めて生きたものになり得るのです。」という一文があります。この「自己目的化」という言葉について最近すごく考えていて、その中で今回書いたことを思いつきました。自己目的化していくプロセスってどうなっているのかを考えたときに、その一つとして今回上げたような抽象的な言葉の曖昧さがあると思います。その曖昧さが本来の大切な意ものと、無意味で非合理的なものを混同させて、それがものごとの自己目的化を生むのではないかと思います。だからこそ、常に物事の本質をとらえ続ける努力をする必要があると感じていて、その一つの努力としてこのブログを綴っていきたいと思っています。

「体験の深さ」というキーワード。

Covid-19休暇の振り返り。

 この三か月間、学校に行くことの意味とか、学ぶことの意味とか、政治はどんな意味があるのかとか、いろいろなことを考えてきました。人と会わずに紙と画面の表面だけを見つめて生活をしているとたくさんのことが抽象的に見えるようになってきてすごく面白い時間でした。そんな中で、自分の感じ方についても見える部分が多かったのでそれをまずはまとめてみます。今日は短めにいきます。

オンラインにはない体験の深さ。

 月曜日から午前中の授業が始まりこれまでの日常を取り戻しつつあります。この三か月間何もかも抽象化して、それを再び具体化してみる、みたいなことをしてばかりいたので学校生活についてもやっていることの意味とか、その背景にある抽象的な概念とかをすごく考えてしまいます。

 そこでまず気づいたのが情報量の多さです。教室に入ると自分でも気づくほど、家にはない量の情報が転がっていました。まずびっくりするのが人との会話です。メッセージを送りあって話すとスピードも遅いし、文章も短くなるので情報が薄くなっていることは想像していましたが、画面越しに話していてもたくさんの情報がそぎ落とされているというのは驚きでした。直接話すと相手の体の動き全体がみえて、表情が立体的に、ディジタルな表現で言うなら超高解像度ノーレイテンシで目に飛び込んでくるわけです。友達と話していても話題の深さ、楽しさ、発展の仕方、オンラインとはまるで違いました。かわいい女の子と話すにしてもまるで感じ方が違います。相手の身振り手振り、距離感、声の響き、香り、そこに「体験の深さ」のようなものを感じるわけです。

 こうして、劇的に環境の変化が起こり、日常を非日常としてとらえられるようになったことで今までは気づかなかった、学校で直接人と会う意味を感じました。オンライン学習について書いた時にも言いましたが、体験をディジタルに置き換えるとあらゆる情報が抜け落ちます。自分たちが大切だと思っていた以外の部分のほうがより大切だったりするわけです。

最近のMyアナログブーム。

 そんなことを最近考える中でたどり着いたのがアナログの世界です。二つほど例をあげて終わります。

 一つ目が機械式のフィルムカメラ。「デジカメ」が普及して以降、写真を撮ることの意味は変容してきたんじゃないかと思います。フィルムカメラをつかって撮ると、まずフィルムを装填して、巻いて、慎重に画角を決め、露光を考えて、思い切ってシャッターボタンを押します。すると、小さな機械の中で歯車がかみ合わさって大きな音を立ててシャッター切れて、その瞬間が記録されます。そのあと、フィルムを現像に出し、返ってくるまで楽しみにまって、それから撮ったときのことを思い出しながら出来上がった写真を見ることになります。一方で、今最も身近なスマホのカメラ。ポケットから取り出し数回タップすると画面いっぱいに景色が現れ、一瞬にして記録されます。僕にはこの体験がすごく薄いものに感じられて、便利ではあるんだけれど実はアナログに体験したほうがもっと豊かで深い体験になるような気がしています。

 もう一つが手紙です。SNSで瞬時に繋がれることが当たり前になると、文字を介したコミュニケーションの意味も変わっているように感じます。手紙を書くとなるとまず便箋を買いに出かけ、自分が書きたいことをまとめて、下書きをし、丁寧に清書をして、封をして、切手を貼って、投函しなくてはいけません。さらに、返信が返ってくるまで毎日ポストを除いて何日も待つことになるのです。面倒だけれど、この長い時間ずっと相手のことを考えていて、これはSNSで瞬時に会話をすることよりもよっぽど深い体験だと思います。

ディジタル化のリスク。

 そこで最近思うのがディジタルにするということはおおきなリスクを伴っているんじゃないかということです。ここまで書いてきたように、私たちが体験していることには自分たちが思っている以上に豊富な情報が入り組んでいます。これを、自分たちのイメージでディジタルに置き換えてしまうとたくさんの情報が消え去っているのです。今回のように急激にオフラインの学校がなくなったからその価値に気づくことができましたが、写真撮影や文字のやり取りは意識せぬままたくさんの情報が失われました。

 だからこそ、ディジタル化には大きなリスクが伴うということを理解して、メリットをしっかりととらえた使い方をする一方で、アナログな情報の豊かさを常に感じる感性、そしてそれを大切にしていく意識が必要な気がします。