混合で描く未来のかたち

アイディアの有機的な結びつきで未来を描こうという高校生による小さなこころみ。

趣深さとアナログの演算装置。

刺激探しの旅へ。

f:id:FuyaYasunaga:20200718223313j:plain

 今日は「PIXARのひみつ展」なるものに行ってきました。ここ最近AO入試に向けて資料を書いているのですが、画面ばかり見つめていると心が貧しくなってきて、アイディアが浮かばなくなっていました。刺激をもらおうと思い、展覧会一覧を眺めているときに面白そうなのを見つけたわけです。以前、長崎の県立博物館でPIXARの原画展があったのですが行けずじまいで、同じくPIXARの展示を観に行ってみることにしました。

 この展示の主眼は「いかにしてPIXARの映画が作られるのか」です。ストーリ作りからキャラクターのデザインスケッチ、粘土による造形、コンピュータでのモデリング、表面処理、アニメーション、フレーミングレンダリングまで、映画を見るときには全く意識しない制作の過程を丁寧に解説してくれます。何より素晴らしいのが体験型であること。少しは大人になって映像や文章を読むのも楽しめるようになりましたが、やっぱり実物を見るのが一番楽しいわけです。映像で実際の作業を観た後に、その実物が所狭しと並んでいるのを見るとものすごく興奮します。さらに、映像作成を体験できるワークスペースも多く、自分でパラメータをいじることで実際のディズニーキャラクターの挙動が変容していく様子を楽しめます。一番面白かったのはライティングを体験できるブース。実物の横でコンピュータによって映像として再現されていく様子が感動的でした。

仕事の縦割り横割り。

 そんな中で感じたのがPIXARの働き方の面白さです。映像でたくさんの技術者の方が紹介されているのですが、よくイメージする大企業の働き方とは全く違うものでした。僕の中で大企業のイメージはこんな感じです。

「上から次々に仕事が細分化されて下っていき、たどり着いた先では結局何をやってるのかわからない。振り返ってみると社会に貢献しているものの、振り返らないと実感できない。毎日は目の前の作業に追われてモチベーションが保てない。」

 仕事が細分化されすぎて、自分のやっていることと、社会とのつながりが見えないことが原因だと思います。僕は、この構造はどうしようもないものだと思っていました。規模がでかくなるとそうするしかない、と。

 しかし、ピクサーの働き方はそうでないように思います。例えば粘土でモデルを作っている人のこだわりは、コンピュータモデリングの担当がうまく拾ってくれて、最終的に作品に反映される。アニメーションの担当は、どれだけ短い秒数の映像だとしても、自分のこだわりが着実に映画の一部となって反映されていく様子が体感できる。この、仕事が横に分割されつつ、有機的に結びついている感じが高いモチベーションを生んでいるように感じました。だからこそ、それぞれのモチベーションが正のインセンティブになって、映像に映るだれもが「思考停止していない」ように見えるのです。常に改善の余地を探していて、そこにコミットして自分の能力を発揮しきっている。しかも、それが有機的な結びつきで映画に反映されていく。こんなにクリエイティブな仕事を久しぶりに見た気がします。

 最近、将来何をしたいのかよくわからなくなっていました。でも、PIXARのお仕事を見ていると、やっていることよりも、一緒に仕事をする仲間がクリエイティブで常に思考してて、やりたいことを実践してそれが反映されていくような環境があればどんな仕事でも楽しい気がしてきました。そんな環境を手に入れるためには自分がクリエイティブじゃなきゃいけないし、思考し続けなきゃいけないと思います。そんな力を大学で高めたい。

 

PIXARのひみつ展/THE SCIENCE BEHIND PIXAR

 そんなPIXAR展を堪能し、活気を取り戻しました。すると自然に思考するエネルギーがわいてきて、いろいろなことを考えました。その一つが、日本で見るタイトルの趣浅さです。例えば今回の展覧会。和名は「PIXARのひみつ展」、米名は「THE SCIENCE BEHIND PIXAR」。米名では決して「ひみつ」とは言わないのです。「Behind」。ただ、科学の後ろに隠れているんです。しかし、いざ自分で考えてみると、日本語の表現でうまく秘密を暗示するのは難しいように感じます。だけれど、日本語がそんなに趣を含有できない言語であったはずがないと思うのです。

 学校の古典の教科書にこんな文章がありました。

歌の詮とすべきふしをさはさはと言い表したれば、むげにこと浅くなりぬるなり。/無名抄 鴨長明

「歌の大切にするべきところをそのままあっさりと言い表してしまっては、ひどく趣が浅くなってしまった。」と訳されます。つまり、俳句で大切な部分は相手に想像させるから美しいと言っているのです。日本は「五・七・五」のたった十七音で日常を切り取って、相手に想像させる美しい文化を継承してきました。ただ、今の僕にはその表現を使いこなすことができない。うまく文化を継承できていないことを痛感しました。

 しかし、この大切な部分を言ってしまうのは言語的な背景からだけではない気もします。例えば「カールじいさんの空飛ぶ家」というPIXARの映画。日本で使用されたポスターとアメリカで使用されたものを比較すると驚きます。

 

f:id:FuyaYasunaga:20200718232033j:plain

 米名はたったの二文字「UP」。さらにポスターに使われているのはこの二文字とロゴだけです。なんというシンプルさ。ポスター自体が一つのアート作品のような美しさです。だからこそ、これを見た人々はたくさんの想像を膨らませる。何が飛んでいるのか。家のかたちをした飛行船か、それとも本当に家が飛んでいるのか。少女が出てきて空を飛ぶのか、妖精か、天使か、はたまたお爺さんか。

f:id:FuyaYasunaga:20200718232037j:plain

 一方日本のもの。タイトルにすべて書いてしまっているのです。カールというおじいさんがでてくること、家が空を飛ぶこと、モンスターズインクの監督の作品であること、おじいさんが夢をあたえてくれること。すべて書かれてます。想像の幅がまるで違うわけです。これではまさに「歌の詮とすべきふしをさはさはと言い表して」しまっているように思います。

 「飛び立つ!」とか「上!」とか、そんな漠然としたタイトルでも別にいいと思うのです。だけどそれをいまの日本の文化は受け入れられない。そうなると単に感性の豊かさが失われているような気がして、残念でなりません。

 

レンズはアナログの計算機。数式が描き出す自然の光。

 今度は視点を変えて。PIXAR展の中ではとにかく映像を作り出す苦労を感じました。何より驚いたのはレンダリングに掛かる時間。3Dのモデルから映像を書き出すのに1フレーム平均24時間。1秒間に24回も切り替わるその1フレームを書き出すのにまる一日かかるというのです。何という処理の膨大さ。しかもが最新鋭の巨大コンピュータで処理しての時間です。そんなことを体感した帰り、バスの窓を流れていく海、都会の風景、マスクをつけた人々の姿を見ているとすべてが目に入ってくる光だということを鮮明に感じられて、以前落合さんがお話していた内容が思い出されました。

www.youtube.com

レンズがアナログの演算装置だという話です。初めに聞いた時は何となく納得できるような、できないような変な感覚でしたが、少なくともその考え方が好きで、ずっと頭の中に残っていました。それが今日突然浮かんできて、自然に理解できたような気がします。

 映像を再現するにしても、それはすべて自然現象のモデル化です。自然に起きていることを数式としてモデル化して、それを計算機に処理させる。その果てしないプロセスがアナログだと光の速さで一瞬にして完結してしまうのです。

 以前、物理の授業でベクトルの内積について感動した話があります。それは数学と物理が美しく組み合わさっていることについてです。「内積というのは数学的に美しい演算方法として数学者たちが考案した。その計算方法を物理に適用するとまったく同じ現象が現実世界で起きている」というのです。なにも意識していない私たちの生活する世界、さらに言うと私たち自身はすべて「物理法則」にしたがっているらしく、今だその例外はありません。常に例外は新たな法則として統合されて、簡潔に説明されていく。こんなに美しい話があるでしょうか。この映像が瞬時にアナログに計算されて網膜に入ってくる感覚は、万物が物理法則にしたがう美しさを感じられるいい機会だなぁと思います。そんな感覚を「レンズはアナログの演算装置」という言葉に感じて、納得しました。

今日はそんな刺激と思考の一日でした。

AIと対話をしてみた今日一日。

テクノロジーに溢れた世界

 今日は本当に小さなちいさな気付きをほんの少しまとめてみる。ここ最近、自分は道具に囲まれて過ごしているんだとものすごく感じるようになった。今文字を打っているキーボードは顔も見たことのない誰かがデザインして、組み立ててくれたもの。座っている椅子もどこか外国から送られてきた、どんな風に作られたのかすら知らないもの。周りを見渡すと何一つ自分で作ったものはない。そう考えると気持ち悪くなってきて、自分にはなにができるんだろうかって感じる。かといってこの道具を捨てられないジレンマもある。

 ところがもっともっと大きな問題がある。それがデジタルのテクノロジーだ。今日は画面に向かって何度も微笑んだし、怪訝な顔もした。その間には自分の指先からたくさんのデータがトラッキングされていて、日々自分の内側が吸い取られていく。そしてデータをもとにたくさんの情報が送られてきて、自分の興味が塗り重ねられていく。意識すれば今はまだ感じられることがが、日々、自分の感覚から薄れていく。その感覚がものすごく気持ち悪い。テクノロジーが生活に溶け込んでいく、落合陽一さんのいう「デジタルネイチャー」なのかな、と思う。その考え方は好きなんだけど、自分がその計算機自然に溶け込んでいく感覚はあまり好きではない。

 

AIとBig Dataと正しく付き合う

 そんなことを感じていた今日、逆にテクノロジーを使い倒してやろうと思った。Apple Musicに自分の興味を思う存分注ぎ込んだ。好きな曲に「ラブ」「らぶ」「Love」した。すると驚くほどApple Musicが自分のものになった。体の一部になりつつあるAir Podsからは心の踊る音楽が蛇口のように絶え間なく流れだした。聞いたこともないのに惹かれる曲までレコメンドしてくる。

 Instagramでもハッシュタグをフォローしまくった。フォローするたびに自分のためのハッシュタグがポップアップする。押せば押すほど自分の内側に迫ってきて、その感覚は気持ち悪いけれど、自分でも気づかなかった興味にどんどん焦点が合わさっていく楽しさもあった。

 ある意味、AIを正しく使った。適切なデータを与えて、天才たちがデザインしたAIに自分のことを教えてもらった。ものすごく便利だけど、自分がどんどん画一化されていくような気がする。独創的になろうとしている人としてグループ化されて画一化されていくのはものすごく悲しい。

 

辞書の学術的な役割と、ブログの自分にとっての役割。

 「英文解釈の透視図」という難関大学の英語入試問題ばかりを集めた問題集がある。もちろん、いわゆる「受験勉強」に効果的な本であるとは思いつつも、それ以上に示唆に富んだ文章を和訳しながらも楽しんでいる。そこにこんな文章がある。

The dictionary does more than record. 

 著者は「辞書は記録するにとどまらない」と和訳する。この一文が意味するのは、辞書はその意味を人々に「教育する」という役割も担う。しかし、その過程で元来の意味から人々が気づかないほどゆっくりと変化しながら伝わってしまう。そしてその変化を次の時代の辞書が再び記録するのだ。

 また、私の愛用する「ジーニアス英和辞典」のまえがきには、

辞書に書かれた文章は出版と同時に過去のものになる。 

 といったようなことが、小西友七先生の言葉として書き記されていた。

 そんな辞書という不思議な書物のことを考えながら生活をする中で、このブログが私自身の思考を記録していく辞書のように思えてきた。AIによって勝手に記録されていくのも悪くはないと思うが、やっぱり自分自身の意思で、自分で自分を形作っていきたいと思う。AIによって自分たち自身までもが記録され、さらに上書きされていく感覚をここに書き記しながら、将来の自分がこの感覚を忘れていないことを祈る。

下書きで過去の自分を振り返って見えてきたもの。(仮タイトル:人生のモチベーション的なことを話してみたい。)

Pre-Introduction.

 あえて「プレ」とつけてもう一つ導入を付け加えた。実はこの原稿5月5日に書いて下書きとして保存しておいたものだ。(仮タイトルはそのときにつけたもの) ここ1週間自分の将来について考える中で本当に自分がやりたいことを見つめ直した。ちょうど昨日、恩師と話している中で考えがまとまってきたところで、今日たまたまこの下書きを読み返した。すると、今だからこそわかるこれまでのもやもやした部分がこの文章に「如実に」出ていたので面白かったし、大切な感覚だと思った。最後にまとめを追記して公開してみる。

 

↓Written on May 5.↓

Introduction.

 とりあえずなんでこんな抽象的なふわふわしたものを書き出したのかを最初に書いておきたい。ここ一か月以上、直接人と話す機会は激減してこれまで以上に自分と向き合う時間が増えた。自分の弱さとかがありありと見えてきて消極的な気持ちになることが多い。モチベーションを保つのも難しい。一時的なモチベーションを持つことはできても、それが次の日、また次の日に続いていく感覚がない。そんな今の状況を一回自分の外に出して整理してみたいと思う。(文字、それらを記す道具の発明は人間にとって最も革新的な発明だと思う。これだけディジタル化、国際化とか言ってるのにすべてのベースは言葉であり、文字だ。この情報を頭の中だけじゃなくていったん外に取り出して保存したり考えたりすることを可能にしたことは人間にとって果てしない飛躍だと思う。今からその恩恵に預かって自分のなかの不安をここに吐き出してみる。)

 

自分の価値。

 ここ最近の自分の中での不安の根源は「自分の価値の不確かさ」だ。学校にいると友達や先生に褒めてもらえることが多くてこの問いから目をそらすというか、そもそもそんなことを考えなくても自信をもって生きていられる。これまで生きてきた中で、自分が生活してきた環境の中では自分の能力が認められることが多かった。人より成長が早いからなのか、考え方がすぐれてるのか、表現がうまいのか、自分の能力が今求められてることにフィットしてるのか、よくわからないが何かと褒められることが多いし、自分でも自信を持っていることが多い。だけどふと考えてみると決して多くの人と出会ってきたわけではないしなにも自分の能力を担保してくれるものはない。なのに自身はどんどん膨らんでいって、目標は果てしなく高く積みあがっている。最近感じるのは自分が思っているほど能力が優れていないことに気づくことへの恐怖だ。大学に言ったら大したことない人間になるんじゃないか。社会に出たらなにも通用しないんじゃないか。そんなことを考えるようになった。

 僕はMr.Childrenの音楽が大好きだ。僕が幼いころから両親の傍で聞いていたからなのか、それともその音楽性や歌詞に込められた思いが馴染むのかはよくわからないが、ほかのバンドや歌手の音楽を聴いていてもやっぱりミスチルの音楽に帰ってきてしまう。これを書き出したきっかけが彼らのドキュメンタリー番組だ。YouTubeで見かけてその姿に圧倒されながら50分間の映像に見入った。そんなとき、彼らは間違いなくその価値が認められた存在であるし、亡くなるときも何か残していけるんだと思うと羨ましくなった。

 

死生観とか?

 ここは短めにささっと。人生の方向を考えるときに「幸せ」はかなり大切なパラメータだと思う。だけどその捉え方は結構難しい。昨日幸せで今日不幸せなのと昨日不幸せで今日幸せなのはどっちが幸せなのか。”幸せ”の量は変わらないはずなんだけど多分後者のほうが幸せな気がする。そう考えると自分の人生が終わる瞬間に幸せなら全部が幸せになるんじゃないかというのが今の自分の死生観。

 

自分が作り出せるもの。

 そこで浮かんだのが、今自分に何が生み出せるのかという疑問だ。こんな風に文章を生み出すことはできる。幸い幼いころから目立ちたがり屋で人前で話すことも多かったから自分の考えを整理するのは得意だ。興味本位で入った新聞部で文章を作る技術も学んだ。(こういう話をするたびに思うがまさにSteve Jobsのconnectingdotsだと思う。)

 ほかに何が生み出せるのか。音楽と書こうと思ったがそう言えるほど熱量を注いだわけでもない。写真のデータを生み出すこともできるがそれが人の記憶に何か残せるだろうか?

 「自分が作り出せるもの」というこれまで考えたことのなかった視点で自分を見てみると思いのほか何も生み出せない。死生観の話に戻るが、幸せをつかむためには何か社会に変化を残すのが一番だと思う。そのためには 何か作り出さなければならない。じゃあ何が作り出せるのか。システムの変化か、物質的なものか、感情に訴えかけるものか、何があるのか。

そんな新しい視点を得ることができたので今日のアウトプットはここまでにしておきます。とりあえずこれはdraftで。

↑Written on May 5.↑

 

振り返って過去の自分を見て感じること。

 今だからこそこの文章を読んで感じることがある。このときにモヤモヤしていたのは自分がやりたいことと自分の将来の夢に乖離があって、その狭間で迷いがあったから感じていたものだと思う。このブログの一番初めの投稿にも書いたが、僕は小学3年生の時から先週まで、約9年半、宇宙のことをやりたいと自分が心の底から感じているんだと信じてきた。それはあまりにも長い時間で、学校にいると何度も発表させられて、大人たちに聞かれてそれらしい理由と一緒に答えては褒められ、友達からは強い夢があることを羨ましがられてきた中で、気づけば固定概念になっていた。だからこそ自分の本当の興味には気づけなかったし、この1週間で気付くことができて本当に良かったと思う。

 この文章を書いた時から、社会にインパクトを与える存在になりたいとは感じていて、だけどそれが宇宙の話をベースに考えなくちゃいけなかったせいでものすごく歪んだ夢に変わっていた。そうやって生まれた夢は自分が心からやりたいと感じるわけではなくて、頭で考えて納得していた夢だ。

 こうして自分の気持ちを俯瞰できれば簡単なんだけれど、なかなか簡単にはいけなくて、だからこうして自分の思考を形にして、できるだけ解像度を高く保存しておくことは大切だと感じたし、この書き出していく過程で社会に対する洞察でも、自分の心の中でも、本質を見抜くことにつながっていると感じた。これまでにないほど取り止めのない文章になったが今回はこれで満足。以上!